コモリスト秀のジジ呆談  ~驀(まっしぐら)って何?

驀地(まっしぐら)って何?

 

 脇目もふらずにまっしぐら、とよく言う。その、まっしぐら、はて?と思ってちょっと調べてみた。驀と書くのだそうだ。馬にのる、またぐことを意味する漢字という。よく「ばくしんする」という言葉を聞くが、これは「爆進」ではなく「驀進」だと説明があった。

 

 驀、これ一文字でも「まっしぐら」と訓読みするようだが「驀地」と書いてまっしぐらと読むとも出ている。明治期の小説にはこちらがよく出てくるという。知らなかった。

 

 さてこれからが本題。脇目もふらずにまっしぐら、なんて今どき、あるんかい?というお話である。

 

 人生は迷い道。あっち見たりこっち見たりキョロキョロと、右顧左眄ばかりでグラグラしながら歩く(いや這いずり回ると言った方がよいかもしれない)ようなもんじゃあないかと思うんだが、どうだろう。「目覚めた人」ブッダさまやそのお仲間ならいざしらず、ボクらのようなボンクラにはとうてい、まっしぐらは無理なのではないかなと・・・

 

 ボクらにできることは、むしろ「脇目もふって、まっしグラグラ」である。脇目フリフリグラグラしましょ、というのは凡人には大切かもしれないのだ。偉人賢人が脇目もふらないのは大丈夫だが、凡人はしっかりキョロキョロしないと、「君は視野が狭いねえ。もっと広くまわりを見ないと。物事考える幅ちゅうもんが大切だよ。」とお小言頂戴すること必至。自分では驀進と思って、馬に鞭しているつもりが、周りからは「猪突猛進」と言われるのである。馬が勢いよく走るのはよいが、イノシシさんは嫌われる。

  人生は 脇目フリフリ 迷い道

 

 しかし、己が迷いの道にあるという認識は大切なものであると思う。驀進も猛進もしていない。立ち止まってキョロキョロしている。そういう時間も必要だ。迷いのさなかに浮動する心を己の中に観じるところから、「完成」への道は始まるのであろう。そうであると信じたい。

 

 立ち止まって、考える時間。そういう静止が必要だと思うのだ。そのためには、「まっしぐら」はどうもあわない。思うに座禅というのは、要するに静止の時間だ。手も足も口も出しません、というあの達磨さんのスタイルは、究極のアンチ「まっしぐら」。しかし、心のなかはグラグラとあっちこっちに浮動しているにちがいない。それでいいのだ、と思いたいのである。

 

  まっしぐら 何処へ向かうか 問もせで

 

ダサイ句のおまけつき今日のジジ呆談、おしまいです。