コモリスト秀のジジ呆談 ~言葉遊びで暑気払い~
頭がくらくらするくらい暑いです。くらくらついでにおかしなことを考えてしまう。
といっても、言葉の連想ゲームみたいなもんで。言葉で遊ぼというか、伊奈かっぺいさ
んの真似の、真似の、また真似くらいのレベル。
現役時代のことも頭によみがえったり・・・まだ娑婆気がぬけないジジィだなあ。
渡る世間は鬼馬鹿ばかり
世間はバカばっかりという時の新しい言い方、と言えないかなあ。
ウエスト・サイズ物語(ストーリー)
肥満度が気になる中高年のお腹回りの奏でる悲喜こもごもの物語り、腹々ドキドキ
の展開、なんてのはいかがでしょうかね。
軽挙妄動 から 「軽挙もうどうしよう」
軽挙しちまってから「もう、どうしよう」とオロオロするさまを表す新語として。
理由なきハンコ
言わずと知れた「理由なき反抗」からの連想ですが。
未だに「めくらバン」という差別用語をお使いになるビジネスおじさんが生息してい
るようなので、考えてみました。これなら口に出しても問題はないかと思います。
ただし、最近は紙の書類にはんこを押すという仕事のやり方自体が急速に廃れている
ようなので、新語を作っても意味ないかもしれませんね。もっとも電子決済の中での
電子印というのはあるらしいから、そこに活路を見出すか・・・
小の器
「将の器」にあらず、なんて人を品評するときにエラそうな人が偉そうに言うこと
が昭和のビジネス界にはまだあったような気がします。今どうなんでしょう。
まあ、昔からこういう言葉を使えるのは、ご自分が「将」たる存在だと自負している
方でしょう。従って、あんまり使う頻度の多くない言葉かと思います。
そこで、誰でも気軽に使えて、使い勝手の良い言葉をボクがご提供します。
それが、「小の器」であります。
「ジブン、小の器なもんで、無理っす。」「小の器なりに頑張りますが、なに
せ器小さいっすから、あんま期待しないで欲しいっすね」とかね・・・
ところで、21世紀の今日この頃、「将」的な人あんまり見ませんねえ。
「素敵な将(ショー)のはじ~まりだよ~」ってな具合になることを期待したい
ところですね本当。(シュガーベイブの山下達郎さん、ごめんなさい)
失礼しました、今日のジジ呆談の最後に、おまけのダサイ句。
ブルシット ワークのできに ぶる嫉妬
振り返ると、そんな日々もありました。今思うと「小の器」そのもの。
たいした仕事をお互い任されているわけでもないのに、同僚の仕事の
出来栄えと上司の評価に、ぶるぶるっと嫉妬なんかしてね。情けない
ことでしたわい。過ぎ去りし遠き夏の日の思い出・・・
コモリスト秀のジジ呆談 ~言葉遊びで暑気払い~
頭がくらくらするくらい暑いです。くらくらついでにおかしなことを考えてしまう。
といっても、言葉の連想ゲームみたいなもんで。言葉で遊ぼというか、伊奈かっぺいさ
んの真似の、真似の、また真似くらいのレベル。
現役時代のことも頭によみがえったり・・・まだ娑婆気がぬけないジジィだなあ。
渡る世間は鬼馬鹿ばかり
世間はバカばっかりという時の新しい言い方、と言えないかなあ。
ウエスト・サイズ物語(ストーリー)
肥満度が気になる中高年のお腹回りの奏でる悲喜こもごもの物語り、腹々ドキドキ
の展開、なんてのはいかがでしょうかね。
軽挙妄動 から 「軽挙もうどうしよう」
軽挙しちまってから「もう、どうしよう」とオロオロするさまを表す新語として。
理由なきハンコ
言わずと知れた「理由なき反抗」からの連想ですが。
未だに「めくらバン」という差別用語をお使いになるビジネスおじさんが生息してい
るようなので、考えてみました。これなら口に出しても問題はないかと思います。
ただし、最近は紙の書類にはんこを押すという仕事のやり方自体が急速に廃れている
ようなので、新語を作っても意味ないかもしれませんね。もっとも電子決済の中での
電子印というのはあるらしいから、そこに活路を見出すか・・・
小の器
「将の器」にあらず、なんて人を品評するときにエラそうな人が偉そうに言うこと
が昭和のビジネス界にはまだあったような気がします。今どうなんでしょう。
まあ、昔からこういう言葉を使えるのは、ご自分が「将」たる存在だと自負している
方でしょう。従って、あんまり使う頻度の多くない言葉かと思います。
そこで、誰でも気軽に使えて、使い勝手の良い言葉をボクがご提供します。
それが、「小の器」であります。
「ジブン、小の器なもんで、無理っす。」「小の器なりに頑張りますが、なに
せ器小さいっすから、あんま期待しないで欲しいっすね」とかね・・・
ところで、21世紀の今日この頃、「将」的な人あんまり見ませんねえ。
「素敵な将(ショー)のはじ~まりだよ~」ってな具合になることを期待したい
ところですね本当。(シュガーベイブの山下達郎さん、ごめんなさい)
失礼しました、今日のジジ呆談の最後に、おまけのダサイ句。
ブルシット ワークのできに ぶる嫉妬
振り返ると、そんな日々もありました。今思うと「小の器」そのもの。
たいした仕事をお互い任されているわけでもないのに、同僚の仕事の
出来栄えと上司の評価に、ぶるぶるっと嫉妬なんかしてね。情けない
ことでしたわい。過ぎ去りし遠き夏の日の思い出・・・
コモリスト秀のジジ呆談 ~驀(まっしぐら)って何?
驀地(まっしぐら)って何?
脇目もふらずにまっしぐら、とよく言う。その、まっしぐら、はて?と思ってちょっと調べてみた。驀と書くのだそうだ。馬にのる、またぐことを意味する漢字という。よく「ばくしんする」という言葉を聞くが、これは「爆進」ではなく「驀進」だと説明があった。
驀、これ一文字でも「まっしぐら」と訓読みするようだが「驀地」と書いてまっしぐらと読むとも出ている。明治期の小説にはこちらがよく出てくるという。知らなかった。
さてこれからが本題。脇目もふらずにまっしぐら、なんて今どき、あるんかい?というお話である。
人生は迷い道。あっち見たりこっち見たりキョロキョロと、右顧左眄ばかりでグラグラしながら歩く(いや這いずり回ると言った方がよいかもしれない)ようなもんじゃあないかと思うんだが、どうだろう。「目覚めた人」ブッダさまやそのお仲間ならいざしらず、ボクらのようなボンクラにはとうてい、まっしぐらは無理なのではないかなと・・・
ボクらにできることは、むしろ「脇目もふって、まっしグラグラ」である。脇目フリフリグラグラしましょ、というのは凡人には大切かもしれないのだ。偉人賢人が脇目もふらないのは大丈夫だが、凡人はしっかりキョロキョロしないと、「君は視野が狭いねえ。もっと広くまわりを見ないと。物事考える幅ちゅうもんが大切だよ。」とお小言頂戴すること必至。自分では驀進と思って、馬に鞭しているつもりが、周りからは「猪突猛進」と言われるのである。馬が勢いよく走るのはよいが、イノシシさんは嫌われる。
人生は 脇目フリフリ 迷い道
しかし、己が迷いの道にあるという認識は大切なものであると思う。驀進も猛進もしていない。立ち止まってキョロキョロしている。そういう時間も必要だ。迷いのさなかに浮動する心を己の中に観じるところから、「完成」への道は始まるのであろう。そうであると信じたい。
立ち止まって、考える時間。そういう静止が必要だと思うのだ。そのためには、「まっしぐら」はどうもあわない。思うに座禅というのは、要するに静止の時間だ。手も足も口も出しません、というあの達磨さんのスタイルは、究極のアンチ「まっしぐら」。しかし、心のなかはグラグラとあっちこっちに浮動しているにちがいない。それでいいのだ、と思いたいのである。
まっしぐら 何処へ向かうか 問もせで
ダサイ句のおまけつき今日のジジ呆談、おしまいです。
コモリスト秀のジジ呆談 「セ・シ・凡~Bon・悩~悪魔de私見death 」
2024年5月13日 セ・シ・凡~Bon・悩~悪魔de私見death
今頃古新聞ですが
気がついたらもう5月も半ば。自分の誕生日は過ぎ68歳に、孫も先日4歳なっている。この15日は結婚記念日だ。
山本潤子が歌う「さらば恋人」(『SLOW DOWN』収録)がテレビドラマの終わりに突然流れてグッときたのは数日前のこと。今や、オトナの階段降ーりる(若者はかつて、オトナの階段のーぼる、と歌ったものだ)時を迎えた年齢のジジとしては何とも言えぬ思いが湧き上がってくるのを抑えられなかった。
人生素通りしてきたなあと思う。素通り物語(ストーリー)、なんて思ってみる。そういえば「過ぎし日のセレナーデ」というドラマがあったが、実人生のほうは過ぎし日のそりゃなーで、というのが実感だ。ただその過ぎし日に戻りたいかと問われたら、それはゴメン蒙りたいと即返答する。
人生が一日と同じく真夜中の午前零時に始まり、午後12時で終わるのだとすれば、今ボクは人生の最後の一時間圏内に入っているのだろう。11PMのお時間ですな、まさに。イレブン・ピーエム・娑婆だまだ。まだまだ娑婆だ。素晴らしきお時間。ということか。
今頃になって映画『いちご白書』をテレビ録画で観た。あの映画のラストシーンがまさに同じ場所で21世紀に再現されるとはね。軍事産業と大学の結びつきを学生は当時鋭く批判した。今も全く同じ構図のようである。世の中は21世紀になってもちっとも変っちゃいないんだな。
年の功というのは、なんとかやりくりすることだろう。周りをうまくまとめてさ。国際政治学の高名な先生が、外交は八方美人でなきゃああかんのやと言われていたと思うんだが。そうやなあとボクも思う。非寛容はいかんよう、とね。正義はいくつもあるのだから・・・
ああ、墓穴に入らずんば何も得ず。ということなのだろうか。しかし当分死ぬわけにはいかない。母はますますお元気モードで100歳までは死にそうにないとのたまう。母より先に逝くわけにはいかない。孫二人の行く末をみてみたいという煩悩も追加されてしまった。それにプーチンや習近平、金正恩が最終的にどうなるかを見届けたいという思いも強くなった。ボクなどがひとり気にかけても仕方ないことであるが。
ともかく生きている限りは、平安と静謐はやってこないということだけはよーくわかった。本当に欲しいものは、墓穴に入らないと得られないのである。だとすれば、死ぬことはまっことよいことである。楽しみである。ただし、これは全く私見death。
今日のジジ呆談は、これにて終わりdeath。
おまけにダサイ句を少しばかり・・・
世の中を ほっと見る苦も 喉過ぎて
ホットミルクはのど越しもよくくだり落ちる、苦も無くて
この坂を くだるシブヤの 後悔道
LINE Cube(旧渋谷公会堂)でさかいゆうを聴いての帰り途、50年前を振り返る
脚つりて 目覚める朝も せ・し・ぼんぼん
とにかく今日も生きているという、平凡なしあわせ、そして悩み
ヒトはみな 猿の惑星 去るのみな
あの頃君は若かった、なんとなくなんとなく幸せ、だった?
惑い多き「生」から去るのだ、「去るの惑生」!