コモリスト秀のジジ呆談  「セ・シ・凡~Bon・悩~悪魔de私見death 」 

2024年5月13日 セ・シ・凡~Bon・悩~悪魔de私見death

  今頃古新聞ですが

 気がついたらもう5月も半ば。自分の誕生日は過ぎ68歳に、孫も先日4歳なっている。この15日は結婚記念日だ。

 

 山本潤子が歌う「さらば恋人」(『SLOW DOWN』収録)がテレビドラマの終わりに突然流れてグッときたのは数日前のこと。今や、オトナの階段降ーりる(若者はかつて、オトナの階段のーぼる、と歌ったものだ)時を迎えた年齢のジジとしては何とも言えぬ思いが湧き上がってくるのを抑えられなかった。

 

 人生素通りしてきたなあと思う。素通り物語(ストーリー)、なんて思ってみる。そういえば「過ぎし日のセレナーデ」というドラマがあったが、実人生のほうは過ぎし日のそりゃなーで、というのが実感だ。ただその過ぎし日に戻りたいかと問われたら、それはゴメン蒙りたいと即返答する。

 

 人生が一日と同じく真夜中の午前零時に始まり、午後12時で終わるのだとすれば、今ボクは人生の最後の一時間圏内に入っているのだろう。11PMのお時間ですな、まさに。イレブン・ピーエム・娑婆だまだ。まだまだ娑婆だ。素晴らしきお時間。ということか。

 

 今頃になって映画『いちご白書』をテレビ録画で観た。あの映画のラストシーンがまさに同じ場所で21世紀に再現されるとはね。軍事産業と大学の結びつきを学生は当時鋭く批判した。今も全く同じ構図のようである。世の中は21世紀になってもちっとも変っちゃいないんだな。

 

 年の功というのは、なんとかやりくりすることだろう。周りをうまくまとめてさ。国際政治学の高名な先生が、外交は八方美人でなきゃああかんのやと言われていたと思うんだが。そうやなあとボクも思う。非寛容はいかんよう、とね。正義はいくつもあるのだから・・・

 

 ああ、墓穴に入らずんば何も得ず。ということなのだろうか。しかし当分死ぬわけにはいかない。母はますますお元気モードで100歳までは死にそうにないとのたまう。母より先に逝くわけにはいかない。孫二人の行く末をみてみたいという煩悩も追加されてしまった。それにプーチン習近平金正恩が最終的にどうなるかを見届けたいという思いも強くなった。ボクなどがひとり気にかけても仕方ないことであるが。

 

 ともかく生きている限りは、平安と静謐はやってこないということだけはよーくわかった。本当に欲しいものは、墓穴に入らないと得られないのである。だとすれば、死ぬことはまっことよいことである。楽しみである。ただし、これは全く私見death。

今日のジジ呆談は、これにて終わりdeath。

 

おまけにダサイ句を少しばかり・・・

  世の中を ほっと見る苦も 喉過ぎて

   ホットミルクはのど越しもよくくだり落ちる、苦も無くて

  この坂を くだるシブヤの 後悔道

   LINE Cube(旧渋谷公会堂)でさかいゆうを聴いての帰り途、50年前を振り返る

  脚つりて 目覚める朝も せ・し・ぼんぼん

   とにかく今日も生きているという、平凡なしあわせ、そして悩み

  ヒトはみな 猿の惑星 去るのみな

   あの頃君は若かった、なんとなくなんとなく幸せ、だった?

   惑い多き「生」から去るのだ、「去るの惑生」!